きょうだい児も色々いる
私は10年ほど前に”きょうだい児”という言葉を知ってから、嫌というほどネットでこの言葉を検索しました。そして、何度か思いを吐き出したことがあります。
その度に必ず批判的な意見をもらいました。
やはり身内に対する「死んでほしい」や「見捨てるつもり」という言葉は”普通の人”にはありえない言葉のようで、「いくらなんでも酷い」から始まり、「親のしつけが悪かった」「あなたは哀れな人」と(もう救いようないね)というような意見まで頂き、ボッコボコに凹まされました(笑)
中でも一番突き刺さったのは、同じきょうだい児からの反対意見。
「私は死んでほしいなんて思いません!兄弟のおかげで幸せです!あなたは酷い人ですね!」
同じきょうだい児の人からもらったこの言葉は本当にキツかったです。あなたの歪んだ性格は誰のせいでもない、自分自身のせい!!と断罪されているのと同じですからね(その通りかもしれませんが)。この言葉には本当に心臓を抉られてしまいました。今でも私が「きょうだいの会」のような集まりに参加しないのはこの出来事が原因です。もう同じような思いをしたくないので、他のきょうだい児さんとの関わりは少し慎重になっています。
この後暫く立ち直れませんでした。昔はそのような意見ばかりだったのです。
しかし、いつの頃からかポツポツと私と同じような気持ちで”本音”を語るきょうだい児の意見が書き込まれるようになってきました。彼らの正直な気持ちと辛い体験談に自分を重ね「私だけじゃなかったんだ!」と勇気づけられましたね~。
そして色々なきょうだい児の書き込みを読んでいく内に気付かされたのです。
「きょうだい児といっても本当に人それぞれ。兄弟の障害の種類、人数、程度、年齢、上か下か、暴力の有無、大人しいかうるさいか、性格、親の思考、対応、躾の仕方、未来像、経済力、祖父母の有無、かかわり、学校の対応、きょうだい児本人の年齢、性別、など。それらによってきょうだい児本人の生き方も考え方も変わってくる。どの考えも間違っていない!どの感情も本人のそれまでの人生を反映しているんだ!!」
ということを。
恥ずかしながら、私は「きょうだい児としての自分はつらいけど、兄弟は好き」という人とは分かり合えないな、と思っていました。「は?兄弟が好きとかキモイんだけど!良い子ぶってるんじゃねー!」と思っていました。しかし同時に「障害者はみんな嫌い!」という意見をみると「いやー、それはちょっと言い過ぎじゃない?いくらなんでも酷いよ。」と思っていました。
また、私は兄弟のことは大嫌いですが、親のことは・・・実はそこまで嫌いではありません。
よく考えてみると親は決して毒親ではなかったし、最低限の事はしてくれたと思います。兄に障害がなければ普通の幸せな家庭だったと思います。
特に私自身に子どもが出来てから、感謝することもあったり、逆に思い出してムカついたこともあったり…なかなか複雑な感情ですが、総合的に恨んではいません(たぶん)。
その事でも「親は嫌い!」や、逆に「親は大好き」という両方の意見を見てもなんか納得できなかったのです。
要するに「自分の考え以外は(きょうだい児の考え方として)間違っている!」と思い込んでいたのです。
それじゃあ「私もきょうだい児だけどあんたは酷い!」と一刀両断されたのと同じことを他のきょうだい児にもしていることになります。
だから今は他のきょうだい児さんのどんな考え方や感情も否定しないようにしています。
それがその人の歩んできた人生を反映していると思うからです。